美術館に行こう:エルミタージュ幻想

勉強も家事は、スマホやAIで済むようになってきました。では、人は余裕ができた時間で何を生み出すか?そこで、本質的に考えて行動する力を鍛える方法に注目が集まっています。リアルな体験をすることで、あえて「脳と体を使う」ことです。

経営者の間で瞑想や朝ランが流行ったり、『ダイアログ・イン・ザ・ダーク』のような暗闇体験が求められるのも、リラックスやストレス解消だけではなく、ふだん使いにくい脳を活性化することで、ニューロンが伸び新しい神経回路ができて、発想が変わるからではないでしょうか。そういう体験を味わうこと自体、楽しいことです。

そういった智慧を知り尽くした人々が、最初の美術館をつくったのではないかと思います。ヘレニズム文化では、このブログの題名になっている古代ギリシアの学術・芸術の女神「ムーサ」(英語の「ミューズ」 )を祀る神殿が「ムセイオン」(学術堂。「ミュージアム」の語源)として発展。優秀な学者を集め、文献と芸術を所蔵研究し、文学、地理学、数学、天文学、科学、医学、物理学がめざましく進化しただけでなく、世界一の興盛を誇りました。世界最大の図書館「アレクサンドリア図書館」も「ムセイオン」の付属機関でした。そこには薬草園も併設されていたといいます。

美術館は、歴史の中で変形しながらも、「智慧のソース」にアクセスできる場所のDNAを維持しているはずです。このシリーズでは、「ムセイオン」の精神を継ぐ世界の美術館とそのアクセス方法をご案内していきます。

人類の至宝・300万点を所蔵。東京ドームと同じ大きさの「隠れ家」

世界三大美術館の一つ。

人類の至宝・300万点を所蔵する4万6,000平米(東京ドームとほぼ同じ広さ)に及ぶ巨大さながら、慎ましくも「隠れ家」という名前で呼ばれることになったロシアの美術館は?

そう。「エルミタージュ美術館」です。
1990年に世界遺産に登録された、所蔵数からすると世界最大。ロシアが誇る美術館です。

ロシアの女帝エカチェリーナ2世が、1764年にドイツ人美術商から購入した美術品がきっかけで発展し、美しい都サンクトペテルブルクのネヴァ川のほとりに「美と瞑想の場」として建設されたのが、このエルミタージュです。

エルミタージュ美術館の内部。Photo by Jason L. Buberal – source
エカチェリーナ2世の肖像 (1729-1796), J.B.Lampi, 1780s, 油彩, Kunsthistorisches Museum所蔵

建設当時のエカチェリーナにとっては、安らぎの場であると共に、ロシアの財力と文化力をプレゼンする重要なツールでした。後進国と見なされていたロシアの地位は大いに向上しました。

美術館は5つの建物からなっています。小エルミタージュ、旧エルミタージュ、新エルミタージュ、エルミタージュ劇場、冬宮殿。本館の冬宮殿が、ロマノフ朝時代の王宮です。

ネヴァ川沿岸からエルミタージュ美術館の建物。左から、エルミタージュ劇場 – 旧エルミタージュ – 小エルミタージュ – 冬宮殿 (新エルミタージュは旧エルミタージュの背後にある)
Leonard G. – Image taken June 2003 and contributed by Leonard G.

「エルミタージュ美術館」に行かねば!となりたい時に。

しかし、ルーヴル美術館・大英博物館と比較すると、「エルミタージュ美術館」に興味を持ちながらも行ったことがある日本人の方は少ないことでしょう。

そんな方は、もし、この映画を観たら、今すぐ「エルミタージュ美術館」にいかねば!という思いが芽生えてくるはずです。(もしかしたら、この10連休の行き先を変えたくなるほどに?!)

それが、アレクサンドル・ソクーロフ監督の『エルミタージュ幻想 』です。

『エルミタージュ幻想』

1台のカメラで90分ワンカットの撮影

『エルミタージュ幻想』を一言で説明するとしたら、

「きのうの晩に見た夢みたいに、分からないけど分かるって感じ。だけど、見終わった後に、なぜか、エルミタージュ美術館に行こう!となる映画」

です。

それを実現するために、映画は1台のカメラのみを使った90分ワンカット、編集なし、本番撮影一日だけ、の条件下で制作されました。

ハイビジョンカメラとハードディスク記録により、初めて可能になった撮影ですが、館内や美術品を解像度高く万遍ない情報を記録する映画ではありません。これにより、流れるように一息で時空を漂う「方舟」であるエルミタージュ美術館そのものを収めることが可能になりました。だから、映画の原題は「ロシアの方舟」です。

もしも ” エルミタージュ美術館 ” という題名の夢をみたら、間違いなくこんな夢だと思うくらい、エルミタージュの内包するドリームタイムを「夢のまま」表しているため、映画は脈絡がありませんが、深い感触が残ります。知識なくとも心がエルミタージュに飛び、実際にカラダを運んで訪ねてみたくなるのは、それゆえでしょう。

ダナエ, レンブラント(1606–1669) , between 1636 and 1643, 油彩, エルミタージュ美術館所蔵。映画の中では、「この絵と私、関係があるの」と秘密をうちあけるご婦人に出会い…。

「もっと見てみたい」と思った瞬間に

では、『エルミタージュ幻想』がアクセスしたエルミタージュ美術館のドリームタイムに、夢の感覚を壊さぬように、ご一緒に飛んでみましょう!

地球48億年の歴史を24時間に置き換えると、人類が誕生するのは何時何分でしょう?

答えは、1日が終わろうとするラストミニッツ。23時58分43秒です。
ふだんは忘れてる生きてるサイクル観ですよね。地球時計から見ると、人の人生はかろうじて存在しているようなものに感じます。

この地球時計の「全体」を1つのタペストリーのように眺めてみたら?わずか2分は「点」のようなものでしょうか。

しかし、そこに近づいて高解像度のカメラでのぞいてみると、スクリーンには何やら色や模様がボンヤリ浮かび上がっては消えるのです。発酵したような酸っぱくて甘い香りもかすかに漂ってくる。それから、きぬ擦れとさざめくような声。

何だろう?

もっと見てみたい。

….


そう思った瞬間に、気がついたら、あなたはタペストリーの中に入っていました!

リッタの聖母, レオナルド・ダ・ヴィンチ (1452–1519), c.1490-1491, キャンバスにテンペラ(木板から移植),エルミタージュ美術館 所蔵。
美術館の目玉の1つ。
レオナルドは全生涯10作品程度しか残していない内の2品がエルミタージュが所蔵。
レオナルドは近年「天才」として評価されてきた作家なので、映画では18世紀的ヨーロッパのキュスティーヌからは無視されてます。

そうして、ふと気づくと唐突にエルミタージュの中にいたのです。しかし、周りはどうやら、自分が見えない模様。ここから、自分がロールプレイングゲームの中に入ったように同化していきます。

出会ったのが、黒い衣服に身を包んだフランス人外交官・キュスティーヌ伯爵。18世紀に実在した人物で、ロシア旅行記『ツァーの帝国:永遠のロシアの旅』の著者としても有名です。

アダム・フィリップ・キュスティーヌ伯爵の肖像(1740-1793), ユージーン・トリピエ・ル・フラン (1805–1872) , 油彩, 1835, ヴェルサイユ宮殿 所蔵

「ヨーロッパ代表」とも言えるキュスティーヌの案内を経て、カメラは33の部屋・1300メートルを90分かけて移動していきます。

そこで、不思議の国のアリスさながら、劇の稽古をしている女帝エカチェリーナ、ペルシャの使節団と謁見するニコライ1世、ロシア革命前夜に昼食をとるニコライ2世一家など。300年に渡るロシア・ロマノフ王朝の歴史の人物に出会います。通り過ぎる部屋では、ラファエロ、エルグレコ、レンブラントなど欧州の至宝である美術品と向かい合い、脈絡のあるようでないシークエンスが流れるようにつながっていきます。

聖ペテロとパウロ, エルグレコ(1541〜1614), 油彩, c.1587-1592, , エルミタージュ美術館 所蔵。
映画の中では、この絵画をみてる青年が「聖書を読ま図、考えず、なぜ聖ペトロとパウロの苦悩が分かるのか!」と怒鳴られる。

90分で通り過ぎる歴史のピースを深く紐解き、1つ1つの研究を行えば、それは膨大な知識となるでしょう。知識があるからこそ理解できる歴史もあるでしょう。観終わった後に、あの登場人物の行く末は?とか、あの絵画のモチーフは?など調べるのも、また面白いものです。

しかし、この体験は、最高の調香師によるフレグランスのように複雑な要素がありながら1つの「あの感じ」にまとまっている。それを、キャッチすることは、知識を使って理解するよりもはるかに莫大なエネルギーを使います。

白紙の状態で、何かを捉えようとした時、初めて、私たちは古の「ムセイオン」で人類の智慧を八方に発展させた人々と同じ方舟に乗れます。

映画の中で、非常に印象的なシーンがあります。

エルミタージュの家主であるエカチェリーナ2世が、家来に呼び止められながら、吹雪の中空庭園をひたすら駆け抜けて去っていく場面です。

彼女はドイツ人として嫁入りをしながら、周囲の忠臣たちを味方にすることで、夫に対してクーデターを起こし、自ら帝位についたほど現世的な政治やビジネスに抜群に長け、事をなしてきました。しかし、彼女の何かは、他国や宮中での駆け引きから隠遁した静かな遠い時空のかなたの人類の智慧を追っていたのかもしれません。

ロシア。サンクトペテルブルクのネヴァ川のほとりに、その「ロシアの方舟」に乗れる物理的なアクセスポイントはあります。人類の至宝300万点をコレクションするエルミタージュ美術館です。

梅澤さやか