日本の芸術を愉しむ:尾形光琳【六曲一双屏風 燕子花図 】

日本最高峰の芸術の1つ

毎年、燕子花(かきつばた)の花が咲く時期だけに、期間限定公開される日本最高峰の芸術の1つ。それは、何でしょう?

教科書にも必ず載ってる尾形光琳の国宝【六曲一双屏風 燕子花図 】(ろっきょく いっそう びょうぶ かきつばたず)です。

この作品を保有しているのが、東京・南青山にある根津美術館です。期間限定の理由は、美術館のお庭で燕子花を愛でることができる時期と合わせているから。毎年、4月から5月にかけて、1ヶ月だけの花の開花と【 燕子花図 】を愉しむ。なんて優雅なんでしょう。さて、残念ながら、今年(2019年)の公開は5月12日で終了。

そこで、今日の記事は、「気になってたけど、まだ観たことない」という方も、「今年観に行った」「毎年行ってる」というリピーターの方も、しばし現実世界の喧騒を離れ、想像世界で永遠に咲き続ける光琳の燕子花に思いを馳せ、また来年の機会を一緒に心待ちにしてみようという気の長いお誘いです。(月日を超えて人を魅了する芸術からみたら、1年なんてとても短い時間なんですがね)

自然の芳醇な「エッセンス」そのものを平面に濃縮した

光琳の【六曲一双屏風 燕子花図 】は、複製図で観るだけでも、面白いです。
何故、私がそう感じるかというと、収縮されているからこそ、この図屏風の濃厚なエキスが良くわかるからです。パッと観ただけで

● 大胆な構図
● 総金地 X 群青と緑青のカラーパレット

という、異常なほど限られた要素だけの表現ですよね。
平面表現の特長であり魅力は、この濃縮性だと思います。中でも光琳は、その濃縮の仕方が半端なかった。世界広しと言えど、類をみない濃縮感です。

想像してみましょう。「燕子花」を観るとき。人の五感はあらゆる側面から立体的に感じてます。見えるもの、聞こえるもの、におうもの…

人が「燕子花」を愛でるとき、それらを総合して自然の芳醇な「エッセンス」を受け取ります。

五感を同時に全開にしてると、「あ、これね」と感じると、「何か、この燕子花、ゆらゆらしてるね」「いろっぽくて、吸い込まれそうだね」…など、五感以外の感覚も得ます。

一般的に、この五感を統合しながら五感を超える受信機が「直観」と呼ばれることが多いです。逆に、膨大な情報を1つ1つ細かに観察するやり方ですと、1つ1つは見えるけど全体がわからずまとめた処理できないため散漫になっていきます。

余談ですが、レーシック手術を受けた人が、視力3.5になったら、全部が見えすぎてしまい疲れて3ヶ月くらい引きこもっていたそうです。ご本人曰く「全て「見える」必要はない」ということでした。AIがある現代、一番濃厚なエッセンスを受け取る受信機の方が、今の社会には必要なんではないかと個人的に感じます。そのヒントが芸術には、たくさんあります。

さて、自然の芳醇な「エッセンス」を受信し、平面の中にぎゅーっと凝縮する「エッセンス」を表現に昇華した天才が光琳でした。

光琳が描くとき、あるものを写しとってるのではなく、自然の芳醇な「エッセンス」そのものを濃縮してるのではないでしょうか。だから、(ただの)燕子花の絵なのに、「狂ってる…」とすら感じるような熱量が観る側の私たちも直感できます。「スーパーデザイン」「スーパーアート」と言われる所以は、ここだと思います。

実際の【六曲一双屏風 燕子花図 】をみて、本当に圧倒されるのは、水気や湿気を含んだものすごい「艶かしい生命の吸引力」です。燕子花の群が「湿気」を孕み、周りのモノを全て飲み込みながら、まるで小川が洪水になっていくような末恐ろしさ。そんな体験を、1つの図屏風だけで感じます。

目の前に立っていると、人の方が呑み込まれそうです。私が小説家だったら、光琳の絵の前に立ったら、絵の中に折りたたまれてしまった人のショートショートを書きたいですね。

万物流転がおりたたまれた秘密

観察していると、さらに面白いことが「起こります」。

まず、「総金地」の効果です。国宝ですから、展示は照明を落とされてますが、当時はHIP HOPの人もびっくりするくらい「きんきらきん!」の「ブリンブリン!」、目も潰れんばかりの輝きだったことでしょう。

そして、六曲一双屏風の左側と右側。
これが一対なのですが、左側のほう花が濃い青、右側の花は明るめの青が多いのです。寄ると、燕子花の花はこんもりしてて、なんの邪心もなく、ただただ艶かしい…。1つの花は小さくとも、集まるとあのような人にとっては末恐ろしも感じるマッシブさを醸せるのは、何故だろう…?

そう思って離れてみると…

屏風の左側(陰)が右側(陽)を受けて、右側(陰)が左側(陽)に入るような流れがありピークポイントの「空」が、ちょうど右でも左でもない、真ん中にあるのが「視えて」きます。

この「空」である真ん中が「視える」と、不思議なことに、末恐ろしさが「しゅん….」と一瞬で消滅します。そして、「シーン…」…とする。奈良の談山神社の裏山の中で本当に「シーン…」とする音を聞いたことがありますが、とても気持ち良い体験でした。

この屏風図を見てると、奈良の山奥と同じ「シーン…」が訪れるのです。これだけ、ダイナミックで動的な造形の中に、最後にはそんな気持ちよさが用意されてるとは。

そして、最後に。
驚いたことに、左と右のデザインは、両側を入れ替えても成立するのです。以前、メディアアート・キュレーターの阿部さんがそれを指摘されていたので、絵葉書で検証してみたら本当にそうでした。

つまり、万物流転がかなってる。

宇宙自然がおりたたまれた平面。それが【六曲一双屏風 燕子花図 】なのです。

観終わった後に、美術館の奥にある庭で本物の燕子花を眺めていると、まるで遜色なく、むしろ光琳の【 燕子花図 】の方がエッセンスを感じるのは、私の受信力・表現力が、まだまだ光琳には至ってないからだと思いました。今年一年は、どれだけ「光琳力」を研ぎ澄ませたかな?と訪れるのも、愉しみなものです。

梅澤さやか