衣服空間:メゾン フランシス クルジャンの香水・ウード

夢の飛び道具

香りは、まどろみと共にある。

まどろみとは、顕在意識が消失して、夢うつつに入っていく間のことだ。その時、「ああ、これ」としか言いようがない、イメージとも言葉とも音ともつかない膨大な記憶のかたまりにアクセスがはじまる。

それを驚くほどの表現力でテクスト化したのが、プルーストの代表作『失われた時を求めて』だった。

ひとかけらのマドレーヌを口にした途端に襲われた快感をきっかけに、幼い頃のゆたかな記憶が蘇る挿話が有名だ。プルーストは、香りをトリガーにダウンロードされる「無意志的記憶(生きた記憶)」を記述した。

プルースト以上に、香りを本質的にあらわした文章は他にない。どんなに、科学的に臭覚について記述したとしてもかなわない。ある香りを嗅いだ時に、そうしようと思わずとも湧いてくるプロセスは、まどろみで起こるとても抽象的な感情で満たされてるから。

弟ロベール(左)とマルセル6歳(1877年)Photo by Modeste Chambay

香りは、己の心地よさを教えてくれる。香りにこだわる人は、心地よさが大事な人だ。

五感の中でも唯一、「臭覚」は、脳の大脳辺縁系で支配されている。大脳辺縁系は、動物系の古い皮質。情緒や欲動、記憶をコントロールしている部位で、「心地よい」「心地悪い」という感情に直結してるのだ。

だから、香水はすごい。
夢の飛び道具として、私たちの感情を戦慄させるのだから。

『夜間飛行』(ゲラン)、『エゴイスト』(シャネル)といった詩的な名前。さまざまな香りのオーケストレーション。時間ともに変化する香りのストーリー。

香水のすベてが、象徴で成り立っている。
どんなに分かりやすい言葉よりも、強烈なアピールだ。

多くの香水ブランドの広告は思わせぶりなイメージと、せいぜい、それぞれの香水の含有香料を掲載する程度。まるであえて情報をおさえているかのよう。なのに、ブランドビジネスの稼ぎ頭は、昔から香水だった。

彼らは知っている。
まどろみの記憶を操ることが、一番強力な魔法なのだ。

「隙」のある香水

現代最高の香りの魔法使いの一人、フランス・クルジャン。
どの香りも、さりげないが、今まで聞いたことのない香りがする。

昨今、人気のフレグランスは鼻が曲がるほど香りの輪郭が強いものも多い。あるいはオーガニックな自然の香りそのものを運ぶものも多い。

クルジャンは違う。

香りを聞くと、個性がないようにも感じるが、くっきりと映画のワンシーンが浮かぶ。それだけコンセプトと世界観がはっきりしてる。

でもそこに入っていけるような「隙」がある。
その1つが、あらゆる人が共有しているまどろみの「記憶」だ。

例えば、朝日につつまれるパリの早朝をテーマにしたオード・パルファム『プティマタン』。起きたてのシーツの、窓から差し込む日の出、すがすがしい空気。やがて、裸の恋人たちの産毛の上を太陽の光がキラキラと踊りはじめる…と、そんな場面が、一瞬のうちに瞼の裏をかすめる。

もう1つの「隙」が、香りの構造をあいまい化していること。クルジャンでは、フレグランスでは常套である<トップ=ミドル=ラスト>と、時間とともにくっきりと変化するノート(摘発速度)による香りのピラミッド構造を採用していない。調合された香りと香りは、ユラユラと揺れる暖簾の間を行き来して、ゆったりと融合しているように香る。

そんな記憶を結集しながらも、凡庸な香りは一切ない。予定調和が完全に裏切られることで、人は香りを自分のものにしてくのだ。



軽く透き通ったアンサンブル

クルジャンの最高傑作はユニセックス・フレグランスの『ウード』だ。

「ウード」とは、沈香を指す。沈香は、日本でも「日本書紀」に登場するほど、古代から馴染みのある香りだ。もっとも最上のものは「伽羅(きゃら)」と呼ばれる。沈丁花科の木が傷つくと、自己治癒のために樹木が樹液を分泌する。樹液が固まって樹脂となる。水に沈むほど重いから「沈香」。香りの生成に50年〜100年かけた希少品は、金にも等しい価値をもち、入手も難しい。

東南アジアで産出される香料は、中東の国で「ウード」と呼ばれて重厚な香りが好まれてきた。「香りのダイヤモンド」と呼ばれ、昔は王族だけが使っていたが、今では中東といえばウードの香りを思い出すくらい、広く浸透している。

フランス人のクルジャンからすると「沈香」=「ウード」(中東)というイメージらしい。サハラの細かい砂塵、星降る夜….。

しかし、日本人の私がこの香りを聞くと、正倉院の奥に入ったような瞑想的な気分にしずまる。実際、正倉院には蘭奢待(らんじゃたい)という天下第一の沈香が収められているのだ。

この香木は、時の権力者たちに愛されてきた。これまで足利義満、足利義教、足利義政、土岐頼武、織田信長、明治天皇らが切り取っている。これまで38箇所の切り跡があるらしい。

宮内庁 – 東瀛珠光 第3集, 初版, 審美書院, 東京, 明治41年11月30日
黄熟香 (中倉135) 蘭奢待 Laos/Vietnam産の香木


2009年くらいから、フレグランス・ブランドでは、ウードをつかったプロダクトが増えてきたが、中東のカスタマーを意識してか、くゆる煙の中にいるような香りも重厚でマッチョなものが多かった。

しかし、クルジャンのウードは、軽く透けている。
SANAAの建築くらいスケスケである。クルジャンの他のラインアップに比べたら強くとも、ウードにしてはライトで垢抜けている。

SANAAが建築を手がけたルーヴル美術館 ランス別館, Photo by Julien Lanoo

もちろん、ウード以外の香料も「隙」から揺れ聞こえてくる。墨汁のようなパチュリ、軽くスパイシーなサフラン。そして時とともにウードとエレミ樹脂がただよってくる。

軽く透き通ったアンサンブル。
時代にふさわしい中々の名香だ。

梅澤さやか