
湧いた涙のわけ
何を検索していたのかは、もう忘れてしまった。
とにかく、ある日、何かをググっていたのです。そうしたら、ある「いけばな」の写真が、目に入ってきた。
見た瞬間、それが何かもしらず、いきなりジワッ、ツーっと涙が出てきました。
悲しい、嬉しい、などの感情は感じず、いきなり現象として。
そうなったのは、人生初めて。
後からある人にその話をしたら、「何かに触れた時、それと自分が共振すると、体内の水分が沸騰して、体内から溢れた」のではないかということ。その時感じた「超音波より細かい振動」「熱くて冷たい温度」と一致していて、妙に納得しました。
「悲劇」や「喜劇」で感じる人間臭いドラマティックな仰々しさは、ゼロ。
主役は草・木・花。自然そのままが生きているゆらぎが壊さず。かと言って、自然の中だと見えないゆらぎを、人の生活の中でも微かに受け取れるように。いのちの連綿と続く流れに手向けたかのような「いけばな」。
ネット上の画像なのに、それがすごい密度で伝わってきました。
それが、川瀬 敏郎さんとの出会いでした。

パラレル・ワールドから、同じ空間へ。
生前の白洲正子が絶賛し、折々に正子と共演してきた孤高の天才花人。
ところが、なぜか今まで知ることなくパラレル・ワールドで生きてきた私でしたが、見てすぐ「川瀬さんが生けている空間を共にしてみたい!」と強く感じて、その後が早かった。
ネットで見て3時間後には、その「空間」を体験できるご縁をいただきました。純粋に感動したこと、そこから派生する縁起の不思議さ、ありがたさを感じながら、数週間後、私はその「空間」に立っていました。
実際、その空間を共にしてみたら、まあ、凄かった。
花を通して、徹頭徹尾、本質だけ。これが日本文化の真髄だと思いました。一見、綺麗に整えられたミニマルな空間。しかし、その空間に行き来する情報量といったら!そして、花と空間の清廉さ、静かながらピッチピチの生命力!

「花をいける」とは?
「花をいける」と「いけばな」は違う。
様式として花をならうのではなく、花にならう。「切ったものが新たな心を宿して、人を浄めたり喜ばせる」ことを全うする。それがなければ、ただ花を殺してしまう。そのように「その人の中の真実」があって初めて「花をいける」という「あり方」が完成する。
これが、川瀬さんの花人としての真髄です。
その背景には、こんな経歴があります。川瀬さんは、京都生まれ。「華道家元池坊」さん御用達の花屋・花市さんのおうちに生まれました。10才から池坊の華道を学び、完全に古典をものにしていた天才少年だったそうです。日大芸術学部を卒業後、パリに留学。
74年に帰国後は、特定の流派に所属せず、「いけばな」の原型である 「立て花(たてはな)」と、千利休が纏め上げた茶花「投げ入れ」を追求。
では、実際には、どう生けてるんだろう?
私は、草・木・花は好きですが、種類はよく知りません。手技のテクニックや名品の由来・見立てなどの知識は、到底足りません。知識は大事としりながらも、何より、ご本人がどのように体を動かし、どのように全てを取りまとめているか?に興味がありました。

紹介してくれた川瀬さんをよく知る友人によると、着物をきていけとは言わないが、初心者として服装からして目立たないものをきていくのが無難だというアドバイス。
わかってる方からの言葉だったので、察しました。これは私に分かりやすいように服で喩えて言ってくれてるんだ。きっと、所作が身についてない人がいくと、お花をいける空間があれたり乱れたりするんだ。では、「とにかく、空気になりにいこう」。
空気になるなんて、言うは簡単だけど、やってみたこともない。
ましてや、所作になってない。私は、どんな有名人にあっても緊張しないのですが、この日ばかりは身を正して緊張してしまいました。
しかして、
こんな感じでした。

とにかく、その場にいる人は怒られ続ける(笑)
私もたいがい「空気」がわかってないけど、みんな同じなんだ。とちょっとホッとしました
気づいたのは、怒られてることで真髄の蜜が流れ込んでくるのです。禅みたいですけど、本当にそんな感じです。ご本人は、「花をいける」を解さない社会や人への文句をベラベラ話しながら、「どうせみなさん、分からないと思いますがね」とビシッと厳しく言い放ちながら、止まることなく滑らかに動かし続ける手元は、私欲がない。花に添えられている。
あえて切った花、それを受け取ってあげる、いける動きはまるで太極拳。
その流れを壊さない台であり、器。
天地人とつながる縦軸をスッと “たてる”「立て花(たてはな)」。
横軸と連動して陰陽を感じるカラダの動きと共に、縦横が交わり中心(ゼロ)に入る場所に花を入れていくのが「投げ入れ」。
その境地を達成した連綿と続く「あり方」パッケージを継承してるのが川瀬さんと言う肉体を通した精神なんだと感じてしまいました。そして、空間を共にすることで、短い時間でも、みている人にもたくさんの継承が行われるようで。。静かなのにもかかわらず、私には終始「ドーン!」「ドーン!」と、たくさんのZIPファイルが降りてきてる感覚。帰りの電車の中は、そのZIPファイルが開いて、情報統合するのにいっぱいいっぱい。そんな一日でした。
実は、このブログを始めたキッカケも、川瀬 敏郎さんのお花に出会ってから。
工芸が面白いと思うようになり、日本文化の真髄をもっと知りたいと思い『ムーサの芸術研究会』を始めたのも、それがスイッチになっていたのです。

この国の「たましひの記憶」である草木花をたてまつり、届けたい
そんな川瀬さんも、東日本大震災後に、生まれて初めてお花が生けられなくなったと言う。けれど、しまいには、被災地の荒れた大地に訪れた遅い春に笑顔を浮かべる人々をみて、
「むしょうに花がいけたくなり、気づけば「一日一花」をはじめていました。生者死者にかかわらず、毎日だれかのために、この国の「たましひの記憶」である草木花をたてまつり、届けたいと願って」
そこから始まったプロジェクトが、一日一花。
震災後、一日も欠かさず366日、毎日いけ続けた献花をブログで発表。まとめたのがこの本です。
そういえば、「いけばな」が興盛したのも、第二次世界大戦後でした。
日本人は、知識や教科書とはことなるDNAレベルで、花を通して継承されるいのちへの感謝と祈りを行ってきたのでしょうか。なんて美しく、洗練された文化なんだろうと思います。
たくさんの情報が行き交う世の中ですが、この国では、昔も今の世も、花がいのちの全てを教えてくれているのです。
INFO
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梅澤さやか

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